前職はレーザープリンタのカバーや医薬品のカテーテルを作る製造業。転職後はシステムエンジニア。転職したことで年収が倍になった。

ニックネーム:やっぱりこうたろう
年齢:44歳
職業:システムエンジニア
お住い:愛知県

前職は製造業。レーザープリンタのカバーや医薬品のカテーテルを製造する仕事。

製造業をして居ました。
フッ素樹脂を原料とし、射出成型機で、レーザープリンタのカバーや医薬品のカテーテルを製造していました。

フッ素樹脂は表面特性が良いので、レーザープリンタのトナーを乗せる部分の使用されていました。
私は、10年働いていて、班長をしていました。

納品会社はレーザープリンタを作って会社は80パーセント納品していました。
ミクロンの世界なので、50ミクロンで偏肉偏差は15ミクロンと精密な製品でした。

ライン作業ではなく、ひとりひとりがその機械を調整しながら、製品を使っていました。
ミクロンの世界なので、技術はかなり必要でした。

その会社は大手で、アパレルで有名な会社でしたが、いろいろな部署があり、プラスチック部門にいました。

就職したのが高卒だったので自分の本当にやりたい仕事ではなかった。5年ほど努めて本当にやりたいことを探すようになった。

私は、高校3年で就職活動をしました。
バブルの後期という事で、1人で4社選べる程の求人数でした。
高校3年の私には、やりたい仕事は考えられるレベルではなかったので、
大手の会社に入ればよいとしか思っていませんでした。

実際に就職して仕事を始めたのでした3組3交代という事ではじめは
生活のリズムを作るのに苦労しました。
5年程経ち、仕事について考える様になりまhした。この仕事は自分が
やりたかったのか?このままこの会社で終わっていいのか?
そんな事を考えながら、仕事をしていました。

しかし、やりたい仕事もなくただ仕事が嫌いなだけだと思い、なんとなく
仕事を続けていました。
班長の仕事としては、やはり歩留まりを挙げる事で、週1で会議がありました。
その会議もすごく嫌いで、憂鬱でした。

転職後はプログラマー。Webショップのシステムや大手の鉄工所のラインの自動化のシステムを主に担当。

転職して、プログラマーになりました。仕事のい内容としては、企業の基幹システムや
Webショップのシステムや大手の鉄工所のラインの自動化のシステムを主に担当して
いました。

製造業で仕事をしていた事もあり、大手の鉄工所のラインの自動化が中心になってきました。
社内ではなく、鉄工所のコンピュータ課の常駐で仕事をしてした。

その頃は、システムエンジニアになっていたので、仕様書を作成するのに、社内ではとても
できないという事で、常駐で作業していました。
このシステムくを10年やっていました。

その鉄工所は独自でミドルウェアを開発していたので、そのミドルウェアを持つに開発
していました。
ラインの工程によって、仕様は変わるので、会議でどんどん詰めていき、プログラミング
をしていました。

この当時は、システムエンジニアでwも、プログラマーもやっているのが当たり前と
いう事で、何でも屋でした。

ニュースを見たことがキッカケでプログラマーになることを決意。

製造業で仕事に悩んでいた時に、たまたまニュースをmていたのですが、IT業界が
急成長して、技術者が圧倒的にたりないという内容でした。

私は、このニュースを見て、プログラマーになりたいと思いました。
私が、中学の頃、パソコンゲームが流行りました。
私もパソコンを購入し、ゲームを沢山やっていました。

このパソコンにはベーシックというプログラム言語でプログラムを組む事が出来ました。
私は、プログラムに興味があったので、楽しみながら、独学で覚えました。
中学を卒業し、工業高校に入学したのですが、朝日と思っていたプログラムの授業
がありました。

私は、3年間で学ぶ事は把握していたので、教え役として授業に参加しました。
それからもどんどんのめりこみ、卒業研究もプログラムを組んでソフトを作成しました。
この学生の時のプログラムの面白さを思い出しました。

中採用のため、新卒との5年の経験差があったが、出来ないことが多くあった。ストレスをぶちまけられることも多々あった。

私は、中途採用という事で、新卒の人と5年に経験の差がありました。
見た目、できる人間と思われやすかったので、物差しが高く、出来なくて
嫌な目で見られていました。

どのプロジェクに行っても、雑用の仕事ばかりで、プログラムさえさせて
もらえない事もありました。

あまりにも出来なくて、途中で退却す事もありました。
キャラ的にダメなやつという感じで、いつも目線がつらかったし、
みんなのストレス解消キャラとして、めちゃくちゃ言われました。
何度も切れられました。
悔しくけど、実力がないという事は間違いなかったので、パニック障害
という病気になるほど、つらかったです。

月に1度、心療内科に通っていました。
全部仕事にストレスからです。

休日もひたすら勉強した。2年でなんとかついていけるようになった。

毎日が、悔しくてプログラムやシステムの在り方を日々勉強しました。
仕事もたくさん参加して、休日無しでひたすら勉強しました。
本屋に行き、いくつもの参考書を購入し、読みまくりましたし、
パソコンスクールにも通いました。

資格を取得するために勉強すれば、追いつけるという考え方です。
正直、システム開発のイメージが全く違っていたので、苦しくて何度も
やめようと思いましたが、後戻りできないし、まず悔しかったので、
絶対に、技術的に追いついてやるという気持ちで仕事をしました。

2年かかりましたが、何とかみんなについていける様になりました。
プライドが高かったので、睡眠も4時間で生活していました。
真でもやってやるという位、自分を追い込みました。

規則正しい生活が出来るようになったのがよかった。今ではシステムエンジニアとして仕事をもらえるようになった。

製造業の時は、まず3組3交代で普通の生活がしたいと思いました。
朝起きて、夜寝るこの人間らしい生活がすごくよかったです。
転職してはじめは、全然ついていけない事から、人生の選択を間違って
しまったのではないか?と不安でたまりませんでした。

でも、絶対にやってやるという気持ちと根性だけはあったので、
みんなを見返す事に力を入れました。
この事もあり、プログラミングが速いというキャラになれました。

次から次えと仕事が受注できるようになり、頑張って良かったと
思いました。
今ではシステムエンジニアとしての仕事ももらえる様になり、
頑張って良かったと思いました。

年収も倍になりました。しかし、私は年収より達成感がほしい
タイプなので、ひたすらシステム開発をして、作業者に満足
してもらえる事が大切でした。

自分で行動していろんな仕事を知ることが大切。

私から、言える事は今の仕事をいやいややすぐらいなら、世の中にどんな仕事が
あるのかを知る事が大切だと思います。
昔みたいに、終身雇用なんて概念は微塵もないので、生きていく為の仕事を探す
べきです。

今は、リストラ首切りという日本の間違った意味になっているのですが、
首切りには間違いないので、どうせ首切りされるなら、自分から動くべきです。

私は、これからの時代は、複数の仕事のスキルと手に入れる事が大切だと思います。
私は、副業で、ハード系のリサイクルショップとコンビニでスキルを手に入れる
為にばいとをしています。

仕事は生きる為の手段です。お金なのです。
今は、大手の会社でも崩れる時代なのでそうなった場合に生きてく手段ふが
なくなってしない様にする必要があるとおもっています。